熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智(きくち)城・温故創生館

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鞠智城の歴史

 鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、当時の日本を統治していた大和朝廷(政権)によって築かれた城です。
 その歴史は、当時の国の歴史書からたどることができます。

『続日本紀』文武天皇二(698)年五月二十五日条

「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」

※(大和朝廷が〕大宰府に、大野、基肄、鞠智の、3つの城を修理させた。

698年頃の鞠智城はこのような状態だったと考えられます。

 7世紀頃の日本は中国大陸や朝鮮半島との緊張関係にありました。
  663年の朝鮮半島における白村江の戦いで大敗した大和朝廷(政権)は、西日本の守りを固めるため各地に山城を築きました。ここ鞠智城は、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城、基肄城に武器や食糧を送る基地だったと考えられています。
  698年に鞠智城も修理されていることから、それ以前に築かれたことがわかります。


『文徳実録』天安二(858)年二月二十四日・同二十五日条

「肥後国申す、菊地域院兵庫の鼓が自ら鳴る」・「又鳴」

※菊池城院の兵庫(武器庫Iの鼓(つづみ)がひとりでに鳴った。また鳴った。(という報告が肥後国からあった)

 7世紀末に「鞠智」と表記されていたのが、平安時代には「菊池」と表記されるようになりました。

『文徳実録』天安二(858)年六月二十日条

「去る五月一日(中略)肥後国菊池城院兵庫の鼓が自ら鳴る、同城の不動倉十一宇焼ける」※宇=家のこと

※肥後国の菊池城院の兵庫の鼓がひとりでに鳴り、不動倉(米倉〕11棟が火災にあつた。

鞠智城内の長者原地区から出土した炭化米。

 実際に、八角形鼓楼や米倉などがある長者原地区では、炭化米(焼けた米)が多量に出土しています。この炭化米をもとに「米原長者伝説」が生まれたものと考えられます。


『三代実録』元慶三(879)年三月十六日条

「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」

※肥後国の菊池郡城院の兵庫の戸がひとりでに鳴った。

現在のように整備される以前は、水田や畑が広がっていました。

 「鞠智城」が「菊池城」として文献に登場するようになった後、不思議な出来事が続いたと記されています。一説には、この事件は役人の不正を隠すため物の怪(け)の仕業にしたとも考えられています。
 この「三代実録」を最後に、「鞠智城」の姿は歴史書から消えてしまいました。



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